7 門真・合併の歴史




1.明治時代

(1)市制町村制のころ

 江戸時代末期、現在の門真市域に19の村(門真一番上、門真一番下、門真二番、門真三番、門真四番、桑才、常称寺、野口、横地、打越、北島、上島頭、下島頭、上馬伏、下馬伏、巣本、岸和田、_島、三ツ島)がありました。
 その後、1889(明治22)年4月に市制町村制が施行され、19あった村が、門真村、大和田村、四宮村、二島村の4村にまとめられました。詳しくいうと、門真一番上、門真一番下、門真二番、門真三番、門真四番、桑才の6村が門真村に、常称寺、野口、横地、打越、北島の5村が大和田村に、上島頭、下島頭、上馬伏、下馬伏、巣本、岸和田の6村が四宮村に、_島、三ツ島の2村が二島村になりました。四宮村の場合、合併前の村に4つの神社があったことから「四宮」と名づけられたそうです。また、二島村の場合、「島」という字が両方の村名にあったことからつけられたといいます(以上、門真市『広報かどま』第937号、2001年11月1日、を参考にしました)。

(2)「門真」の由来

 さて、「門真」という名前の由来ですが、室町末期から「門真」の地名が使われ始めたようです。室町時代初期までは「普賢寺庄」と呼ばれていました。「かどま」の意味は、「門間」で、低湿地などで生産性の低い荘園が、領主から免田として認められたことからきた名前のようです(かどまの意味については吉田茂樹『日本地名事典コンパクト版』新人物往来社、1991年、を参照しました)。したがって、「門真」の名前には古い歴史があるといえます(以上、門真市議会事務局編『市政のしおり』2001年9月、を参考にしました)。
 それでは、お隣の「守口」という名前の由来はどうなのでしょうか。もともと「もりぐち」という名前は、森口と書かれ、「森の入り口」を意味していたといわれています(平凡社『大阪府の地名・』平凡社、1986年、を参照しました)。守口市議会事務局編『もりぐち 市政の概要』(平成13年版)によれば、江戸時代元禄年間に「守口町」と公称されたそうです。この当時の守口は、東海道の宿場町でした。2つの名前を比べてみると、「かどま」の名前の方が「もりぐち」よりも古くから使われていたことがわかります。

(3)明治時代の人口

 明治末期、1909(明治42)年の4村の人口は、門真村2,791人、大和田村1,774人、四宮村2,439人、二島村1,421人、合計8,363人でした。
 その後、1910(明治43)年に、天満橋−五条間に京阪電車が開通し、門真(門真村)、古川橋(門真村)、萱島の3停留所がつくられました。これが一因となり、とくに門真村で人口が増加して発展していきました。

2.大正・昭和初期の時代

(1)大正期

 1920(大正9)年10月の第1回国勢調査時の人口は、門真村3,334人、大和田村1,724人、四宮村2,210人、二島村1,331人、4村あわせて8,599人でした。先に紹介した1909(明治42)年と比べると、門真村のみで人口が増加し(543人増)、あとの3村では減少しているのが目立ちます。
 この1920年代には、地方制度上大きな変化が3つみられました。まず第1に、1921(大正10)年に郡制廃止法案が帝国議会で成立し、府県と市町村の中間的地方組織であった郡がなくなったのです。門真村など4村は、北河内郡役所が廃止され、直接大阪府の監督のもとにおかれることになりました。第2に、第1次世界大戦後、戦後恐慌・金融恐慌と不況が続き、地方財政が悪化する一方、人口増で行政需要も拡大しました。第3に、大阪市が経済発展して拡張したことによって、門真村などの大阪市周辺の市町村がその影響を受けた時期だといえます。たとえば、1922(大正11)年に、大阪市は、ベッドタウン化した守口町を都市計画区域(住宅地域)に組み入れましたが、これによって、守口市は都市計画上大阪市の影響力を受けることになりました。また、1925(大正14)年には、大阪市へ東成郡、西成郡の44ヵ町村が編入され、大阪市第2次市域拡張が行われました。

(2)昭和初期

 こうした状況にあった地方政府ですが、1930年代になると、財政難への対策や行政合理化が求められるようになりました。その手段として登場したのが、合併でした。大阪府は、1930(昭和5)年、町村道路費の補助金を優先的に与える、町村農会の補助を有利にする、伝染病舎に対する補助金額を増額するなどの合併特例措置をもうけて、合併を奨励しました。この大阪府の合併計画は、毎年1郡1、2ヵ所づつ合併を進め、245町村を80町村ぐらいにするというものでした。
 また、お隣の守口町では、大阪市への編入合併の動きを強めていきました。1931(昭和6)年、守口町を含む大阪市周辺の11ヵ町村(門真村は含まず)が、内務大臣・大阪府知事・大阪市長()に、大阪市域編入を希望する陳情書を提出しました。しかし、大阪市は編入合併の考えがなかったようで、結局、この合併構想は流れました。守口町は、大阪市への編入合併を模索する一方で、周辺の門真村・三郷村・庭窪村との合併も模索し、守口町会はそのための調査委員を選定しました。3村のうち、三郷村は以前から合併を望んでおり、合併に熱心な姿勢を示していましたが、庭窪村、門真村は積極的ではありませんでした。
 結局、このとき、門真市の選んだ道は、合併しないことでした。1939(昭和14)年4月1日、門真村は門真町(戦後の門真町と区別して小門真町と呼ばれました)になりました。町制移行の背景として、鉄道の敷設・電気供給開始による人口急増化と行政需要の増大、農村の工業化、これらに伴う上水道敷設といった広域行政へ対応する必要があったことが考えられます。門真町は、守口との合併や大阪市への編入には一線を画し、あくまでも衛星都市をめざしたわけですが、その理由は、松下関連工場の誘致により、税収増が期待できたことにあったといわれています。なお、この時期、守口町が合併を模索したのは、社会資本整備費、町債の増加によって町財政が悪化し、これを解消するために合併を考えたようです。門真村が門真町になった後も、1939(昭和14)年に、守口町、三郷町、茨田町大阪市への編入合併運動が持ちあがりました。

3.戦時期

 1940年代に入ると戦時色がかなり濃くなり、地方政府もその影響を受けることになりました。1940(昭和15)年9月に、中央政府は「国土計画設定要綱」を策定し、総力戦体制の構築を目指しました。これを受けて、1940(昭和15)年に、大阪府がブロック主義による町村合併計画を策定しました。これは、北河内郡24町村を6ブロックにまとめる計画でした。また、大阪市では、1941(昭和16)年1月に、「4案からなる合併策試案」を作成しました。大阪市庁舎を中心に、北は池田市・伊丹市・尼崎市を、南は堺市、東は生駒の山麓までを合併し、国防強化を目指すものでした。
 こういった国防の観点からの「合併」が計画されるなか、守口町は大阪市への編入を目指しました。しかし、1942(昭和17)年末、大阪市との合併構想が頓挫し、今度は、周辺の門真町、三郷町、茨田町、庭窪町との5ヵ町合併をめざすことになりました。しかし、1941(昭和16)年5月に決定した茨城田上水道組合設立によって、門真町と守口町の合併の必要性は薄れ、合併は成立しませんでした。

4.戦  後

(1)戦後直後〜「町村合併促進法」成立まで

 1947年前後、大阪市が特別市制実現を求める流れの中で、門真市以外の周辺町村では大阪市への編入を求める動きが出てきました。しかし、これに大阪府が猛烈に反対したために実現しませんでした。その一方で、門真町は守口市との合併を模索していました。
 1946(昭和21)年には、門真町を含む4ヵ町村と守口市との合併が検討されますが、保留となりました。1948(昭和23)年には門真町、庭窪村の守口市への合併(財政難解消が理由)が検討され、守口市、門真市双方の議会では合併が可決されました。しかし、1951(昭和26)年に行われた門真町の住民投票で合併反対の結果が出され(賛成567、反対2,268)、結局、町議会もこれを受け入れざるをえませんでした。その後、1952(昭和27)年ごろに、大阪市への編入が検討されています(1952年1月、大阪府知事へ大阪市への編入を申請)。

(2)「町村合併促進法」成立後〜新「門真町」成立まで

 こういったなか、1953(昭和28)年に、「町村合併促進法」が制定され、いわゆる「昭和の大合併」が始まります。門真町では、1954(昭和29)年に、守口市と門真町、庭窪町、大和田村、四宮村、二島村の1市5町村との間で合併協議会が設置され、活発な合併の動きがみられました。このとき、合併後の新市の名称を「守口市」とすること、庁舎は守口市、5町村に支所を置くことなどが決定されています。門真町では、この合併案を、1954(昭和29)年10月9日に門真町会で議決しましたが、同年11月に町内の紛争が激化したため、合併不参加を決定しました。その後、合併促進協議会からの脱退を申し込み、門真と守口の合併は成立しませんでした。
 その後、大阪府北河内地方事務所の熱心な働きかけもあって、大和田村、四宮村、二島村が庭窪町、門真町に5町村での合併を申し入れ、あらたな合併が模索されることとなりました。しかし、庭窪町が守口市を含めた1市5町村の合併に固執したため、門真町では、町会全体協議会を開いて、5町村合併案を見送り、あらたに1町3村での合併を検討することを決定しました。この1市3村合併案はとんとん拍子に進み、1956(昭和31)年9月30日に、門真町に、大和田村、四宮村、二島村の3村が編入合併して、新しい門真町が成立しました。

(3)再び守口市との合併構想がもちあがる

 その後も守口市では、「大阪市への編入合併」と「隣接町村との合併」といった2つの合併策を熱心に模索していきました。しかし、このうち大阪市への編入合併は、大阪府の反対もあって見込みがなさそうだということ、庭窪町が守口市に合併申し入れをしたことがあって、結局、庭窪町との合併が焦点となりました。しかし、このとき、守口市は庭窪町との合併をまず第1段階の合併と位置づけ、門真町との合併を第2段階として射程に入れることを考えていました。具体的には、庭窪町との合併の際、「庭窪町、門真町、及び守口市」という枠組での合併を促進するように知事勧告を出してもらい、それを盾に門真町を合併したいという構想だったのです。そして、1957(昭和32)年、守口市と庭窪町、門真町の1市2町の合併を勧める知事勧告が出されましたが、門真町は、これを受け入れませんでした。その理由は、門真町が、同町に立地する松下電器によって、法人税、固定資産税、町民税が税収増となって、1958(昭和33)年度には府下第1位の黒字を記録したのに対し、守口市が赤字再建団体だったことのようです。そして、そのことを理由に門真町民の8割が合併に反対したために、1市2町ではなく、守口市と庭窪町だけとの合併となったのです。

5.「門真市」誕生

 1962(昭和37)年ごろになると、人口が5万人を超えたこともあって、市制施行を望む声が高くなりました。そして、1963(昭和38)年8月1日に、門真町は門真市へ昇格しました。
 その後も合併構想はなくなったわけではありませんでした。1966(昭和41)年には、守口市、門真市、大東市、四条畷町との合併案がもちあがりました。このとき、守口市が財政難を克服していたために、合併を拒む理由はないということで、門真市は守口市とともに合併に対し積極的なスタンスをとりました。しかし、大東市、四条畷町が合併に消極的だったため、時期尚早ということで、合併の話は流れました。

6.ま と め

 最後に、門真・守口の合併の歴史をまとめてみますと、次の2つの特徴をあげることができます。まず、第1に、門真にとっては、守口と合併する構想がよくもちあがっていますが、それは、守口の財政難克服、水道などの広域行政の観点から求められているケースが多い、といえます。第2に、守口は大阪市と接していることもあり、大阪市との合併を求めることが多いが、その一方で他の周辺市町村(門真も含む)との合併も求めており、2つの流れがある、といえます。
 以上は、門真市『広報かどま』第937号(2001年11月1日)、門真市『門真市史』第5巻(2001年)、を参照しました。



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