わが町にも歴史あり・知られざる大阪164

 幣原喜重郎  門真市

2010年5月13日付「毎日新聞」より

 

 強圧外交に立ち向かい−−昭和史彩るキーパーソン 

   幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)といっても、ピンとこない方が多いと思うが、昭和史のある時期のキーパーソンだった。その足跡を振り返っておこう。少々、歴史の教科書っぽくなるが、ご勘弁を。

 1872(明治5)年に門真村に生まれた喜重郎は、1880(明治13)年、当時、日本唯一の官立中学だった大阪中学校に入学。のちに首相となる浜口雄幸と首席を争った。東京帝大を卒業後、外務省に勤務。ロンドン総領事館時代に、自信のあった英語が通じないのにショックを受けて猛勉強し、外務省一とうたわれた英語力をわがものとした。

 31歳の時、三菱財閥の岩崎雅子と結婚。政財界の閨閥(けいばつ)に連なることになる。

 喜重郎が外交官を務めたのは、戦争の時代だった。第一次大戦時はヨーロッパ在勤で、敵であるドイツの情報収集に功績を上げた。日本はドイツ領の中国・山東半島に出兵。加藤高明外相は、日本の権益拡大を求める「対華21カ条要求」を中国に突きつけた。

 中国では反日機運が高まるのだが、この時、オランダ公使だった喜重郎は、同じ三菱の閨閥に連なる義兄で上司の加藤外相に、反対意見書を打電した。身過ぎ世過ぎにきゅうきゅうとするような人物ではなかったことが、よくわかる逸話だ。

 1915(大正4)年、外務次官となるが、ロシア革命に干渉するシベリア出兵にも反対した。軍部が発言権を増し、イケイケドンドンの風潮に、公然と異を唱えたところに、この人の真骨頂があるように思える。

 五百旗頭真(いおきべまこと)・防衛大校長は、その著書「占領期 首相たちの新日本」で、「彼は『正当な国益』追求を、武力行使や強圧外交ではなく経済的手段に見いだす。そこには大阪人としての実際感覚が生き続けていると見てよいであろう」と論じている。

 軍縮などを目的とした1921(大正10)年のワシントン会議に、駐米大使だった喜重郎は全権として出席。腎臓結石で倒れながらも、病床から起草した案が行き詰まった交渉を進展させたという。この会議では、対華21カ条要求の一部放棄やシベリア撤兵など、喜重郎が反対した日本の強圧外交や武力行使にタガがはめられた。

 国益追求、経済的手段に 「大阪人の実際感覚」


 1924(大正13)年、外務大臣に就任。外交演説で「中国の内政に干渉せず」と言明し、米英との協調外交を推し進めた。また、日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立した

 張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件など、満州(中国東北部)で関東軍が暴走を始め、そのあとに首相に任命された浜口雄幸は、かつての級友、喜重郎を外相に起用。1930(昭和5)年、対中関係改善のため、中国の関税自主権を認め、一方、ロンドン海軍軍縮条約を成立させ、軍部や右翼から「軟弱外交」と批判にさらされた。

 その後の日本が、軍部独走で戦争に突っ走り、世論も新聞も同調したのは歴史が示す通り。そんな、あらがいがたい風潮に立ち向かったのだ。なにかにつけて「国益」が幅をきかす今の世を思うに付け、本当の国益とは何かを考えさせられる。

 1931(昭和6)年に満州事変が勃発(ぼっぱつ)。若槻内閣が崩壊し、喜重郎は隠せいする。前掲の「占領期」によると、1941(昭和16)年7月、戦争に突入しようとする時期に、喜重郎は請われて近衛文麿首相に会い、戦争回避を直言した。

 戦中、軍部の恨みを買った喜重郎には、憲兵の監視がついたという。喜重郎が再び、表舞台に出るのは、戦争が終わってからだった。【松井宏員】

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 「わが町にも歴史あり」でおなじみの大阪案内人、西俣稔さんが講師を務める毎日文化センターの講座「古地図で散歩する大阪」が5月23日に開講、受講生を募集している。

 毎月第4日曜に大阪の街を歩く。テーマは「船場の近代建築と江戸の風景」(大阪市中央区)▽「コリアタウンと明治の集落」(生野区)▽「京街道を歩く」(守口市、旭区)▽「沖縄文化と新田開発」(大正区)−−など。

 10月までの計6回。受講料は9650円。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。

 

わが町にも歴史あり・知られざる大阪 165 幣原兄弟 門真市 2010年5月20日付「毎日新聞」より

わが町にも歴史あり・知られざる大阪 163 幣原兄弟顕彰碑 門真市 2010年4月29日付「毎日新聞」より  

   


わが町にも歴史あり・知られざる大阪 西三荘 門真市・守口市 2010年4月15日付「毎日新聞」より