わが町にも歴史あり・知られざる大阪163

 幣原兄弟顕彰碑 門真市

2010年4月29日付「毎日新聞」より

 

 段蔵の生家跡に
  守口市の西三荘ゆとり道に戻って。そこから中央環状線を東へ歩き続ける。門真市に入っている。たっぷり2駅分は歩いて、「試験場入口」の交差点を南へ折れる。古川橋の運転免許試験場が近い。

 地名は一番町。西俣さんの解説。「江戸時代、門真庄の一番村だったところで、言うたら門真の中心地ですな。門真庄は一番村から八番村までありました。守口の大庭庄も十一番村まであったんです」。その名残で、門真には一番町のほかに三番という地名が残る。

 家電量販店のコジマの角を左折すると、白壁の旧家が建ち並ぶ。菜の花の黄色が目に鮮やかだ。よく見ると、どの家も蔵の土台が石垣だ。「低湿地やから、水害から家を守るためです」と西俣さん。段蔵といい、江戸時代からある。淀川だけでなく、一番町のすぐそばを流れる古川もよくあふれたから、この辺に多いようだ。

 昭和30年代には市内に100以上あったが、都市化などで段々減ってきている。同じような蔵は、枚方では「かるもんぐら」、木曽川流域では「水屋」と呼ぶそうだ。

 このあたりは区画整理がされていないので、昔のままの入り組んだ細道が残る。中には行き止まりの路地もある。「見通しが悪いでしょ。よそ者を入れないための工夫ですわ」。その一帯を、よそ者の2人がうろつく。

 民家の脇に、小さな公園のような所がある。その奥に、大きな石碑が立ち、両脇にはいかめしい顔をした銅像が並ぶ。幣原坦(しではらたいら)、喜重郎兄弟の顕彰碑だ。

 元首相と歴史学者、銅像も 題字の筆は吉田茂
  幣原喜重郎は外交官で、戦後の混乱期に首相を務めた。「大阪から首相が出てるの、知らん人多い」と西俣さん。外相時代は協調外交を推し進め、軍部や国粋主義者から「軟弱外交」のそしりを受けた。大阪で編成された陸軍の第8連隊は「またも負けたか8連隊」と歌われた。大阪は戦を好まぬ平和主義の地だ、と断じたい。

 顕彰碑のある場所は幣原兄弟の生家跡だ。兄の坦は歴史学者で、戦前、台湾に創設された台北帝国大学の総長などを務め、戦後は生家に戻って亡くなった。庄屋も務めた豪農で、碑のあるあたりが玄関、公園のような広場は玄関先だったというから、ずいぶん大きな家だったようだ。市立歴史資料館には生家の写真が残っている。それを見ると、やはり段蔵だ。

 跡地はほとんどが売却されたが、碑のある広場だけが現在も坦の子孫が所有しているという。

 碑は1966年に当時の門真町長や外交官時代の知己らが発起人となって建てられた。「幣原坦 幣原喜重郎両先生顕彰碑」の題字は、吉田茂元首相の筆になる。隠居していた73歳の喜重郎を首相に担ぎ出したのが吉田で、幣原内閣の外相を務め、喜重郎の後を受けて首相に就いている。のちに、ともに自由民主党を結成する。非常に近い関係だったわけだ。

 碑文は当時の左藤義詮府知事の書で、「幣原坦博士の学徳は万世の師表 同喜重郎首相の経綸は永遠の平和 この偉大なる兄弟の生地を敬存して 切に次代の奮起を待つ」と記されている。

 市長室には喜重郎の書「公直無私」の額が飾られている。1931年に門真村庁舎ができるが、喜重郎が貴賓室を寄贈。そこに掲げられていた。「公職に就く者は実直、無私であれ」という意味で、喜重郎の人柄を表わしている。歴史資料館には、複製の額が掲げられている。【松井宏員】

 

わが町にも歴史あり・知られざる大阪165  幣原兄弟 門真市 2010年5月20日付「毎日新聞」より

 

わが町にも歴史あり・知られざる大阪164  幣原喜重郎 門真市 2010年5月13日付「毎日新聞」より

   
わが町にも歴史あり・知られざる大阪 西三荘 門真市・守口市 2010年4月15日付「毎日新聞」より